菊池寛と弘法大師
2012年02月05日
香川出身の文豪菊池寛が
弘法大師入定1100年になる年、
各方面で様々な催事が催されるので
雑誌社から、弘法大師についての戯曲を依頼されました。
自分は、弘法大師と同国の生れである。弘法大師の出生地たる屏風ヶ浦(一説に善通寺とも云う。多分善通寺に弘法大師の生家たる佐伯氏の本邸があり、風光明媚の海岸たる屏風ヶ浦に別荘があったのであろう。母の玉依御前は、出産のため別荘に居たのではあるまいか)の風光をも知っているし、幼年時代は(お大師様が・・・・)と、何かにつけて、聴かされたものである。
だから、弘法大師のことは、自分でも書きたかったので直ぐ引き受けた。しかし、後で考えれば、これは自分が、弘法大師のことをよく知らなかったからである。
菊池寛はいろいろと弘法大師について調べます。
ところが、調べれば調べる程、分かれば分かるほど、
書けいなくなります。
そこで、直木三十五のところへ相談に行きます。
直木賞で有名な直木三十五は弘法大師についての本を書いていたからです。
直木の所へ行ったとき、山本有三曰く、「僕も実は、護国寺関係から、弘法大師の戯曲を書くように頼まれて、いろいろ研究したが書けない。謝礼まで貰っているのだが、もう十年近くなるが書けない。しかし、宗教家としては一番偉いのではないか。偉いから書けないのだ」。と、云った。山本が、十年がかりで書けないのだから、自分が一月や二月の準備では書けない筈だ。
すると、直木が「僕達三人で考えても、戯曲に書くところがないのだから、誰が考えても無いだろう。」と、云った。
それで、自分も諦めて、「キング」へ断った。すると、「キング」は諦めないで、それでは小説でもいいから、書いてくれと云うのだ。小説なら書けるだろうと思って、自分は更に引き受け直した。
菊池寛は、更に勉強し、東京の高野山別院に通ったりして教義も多少理解するようになったですが、
「分かれば分かるほど、奥が深くなる」
と言って、
自分は、弘法大師に関する小説も戯曲も書けなかった。しかし、それは、作家としての良心が、あったためだと云いたいのだ。いい加減にごまかしたら、いくらでも書けたであろう。しかし如何なる小説や戯曲をかいた場合よりも、勉強したことはたしかである。
そして、同郷の先人たる偉大なる大師の教義をおぼろげながらも知り、その伝記を知悉したことは、自分としても、大いなる収穫であった。
と書いています。
菊池寛がこの言葉を書いた時、
一通の速達が届きます。
陳者、大本山善通寺に於て、来る昭和十一年四月、弘法大師一千百年御遠忌大法会を厳修せんとするに当り、讃岐の産める一大偉人弘法大師の霊を仰ぐもの香川県を中心とし、茲に大師の御忌奉賛会を組織致し善通寺を復興せんが為の紀念事業を翼賛し、以て大師の偉徳を讃仰し云々
会合を開くための勧誘状で、松平頼寿伯を初め讃岐出身の名士数名の名を列ねてある。善通寺では、寺の都合で、遠忌を二年延ばすのであろうか。
自分は夜中は執筆しない。所が、たまたま深夜の二時に、弘法大師のことを書いていると、こんな速達が時遅れて来るなど、偶然ではあろうが、奇蹟の親玉のような弘法大師である丈に何かしら、不思議な気がしないではいられなかった。
(「弘法大師」、『空海曼荼羅』夢枕獏編著、2004)
たんぽぽの風企画を2年前にさぬき市で開いたのも、
お遍路さんのお土産を思い付いたのも、
それがたまたま四国霊場88か所開創1200年を3年後に控えた時期であったのも、
偶然ではあるのでしょうが、
菊池寛のこの文章を
これまた偶然見つけて読んだのも、
何かしら、不思議な気がしないではいられない・・・・です。
弘法大師入定1100年になる年、
各方面で様々な催事が催されるので
雑誌社から、弘法大師についての戯曲を依頼されました。
自分は、弘法大師と同国の生れである。弘法大師の出生地たる屏風ヶ浦(一説に善通寺とも云う。多分善通寺に弘法大師の生家たる佐伯氏の本邸があり、風光明媚の海岸たる屏風ヶ浦に別荘があったのであろう。母の玉依御前は、出産のため別荘に居たのではあるまいか)の風光をも知っているし、幼年時代は(お大師様が・・・・)と、何かにつけて、聴かされたものである。
だから、弘法大師のことは、自分でも書きたかったので直ぐ引き受けた。しかし、後で考えれば、これは自分が、弘法大師のことをよく知らなかったからである。
菊池寛はいろいろと弘法大師について調べます。
ところが、調べれば調べる程、分かれば分かるほど、
書けいなくなります。
そこで、直木三十五のところへ相談に行きます。
直木賞で有名な直木三十五は弘法大師についての本を書いていたからです。
直木の所へ行ったとき、山本有三曰く、「僕も実は、護国寺関係から、弘法大師の戯曲を書くように頼まれて、いろいろ研究したが書けない。謝礼まで貰っているのだが、もう十年近くなるが書けない。しかし、宗教家としては一番偉いのではないか。偉いから書けないのだ」。と、云った。山本が、十年がかりで書けないのだから、自分が一月や二月の準備では書けない筈だ。
すると、直木が「僕達三人で考えても、戯曲に書くところがないのだから、誰が考えても無いだろう。」と、云った。
それで、自分も諦めて、「キング」へ断った。すると、「キング」は諦めないで、それでは小説でもいいから、書いてくれと云うのだ。小説なら書けるだろうと思って、自分は更に引き受け直した。
菊池寛は、更に勉強し、東京の高野山別院に通ったりして教義も多少理解するようになったですが、
「分かれば分かるほど、奥が深くなる」
と言って、
自分は、弘法大師に関する小説も戯曲も書けなかった。しかし、それは、作家としての良心が、あったためだと云いたいのだ。いい加減にごまかしたら、いくらでも書けたであろう。しかし如何なる小説や戯曲をかいた場合よりも、勉強したことはたしかである。
そして、同郷の先人たる偉大なる大師の教義をおぼろげながらも知り、その伝記を知悉したことは、自分としても、大いなる収穫であった。
と書いています。
菊池寛がこの言葉を書いた時、
一通の速達が届きます。
陳者、大本山善通寺に於て、来る昭和十一年四月、弘法大師一千百年御遠忌大法会を厳修せんとするに当り、讃岐の産める一大偉人弘法大師の霊を仰ぐもの香川県を中心とし、茲に大師の御忌奉賛会を組織致し善通寺を復興せんが為の紀念事業を翼賛し、以て大師の偉徳を讃仰し云々
会合を開くための勧誘状で、松平頼寿伯を初め讃岐出身の名士数名の名を列ねてある。善通寺では、寺の都合で、遠忌を二年延ばすのであろうか。
自分は夜中は執筆しない。所が、たまたま深夜の二時に、弘法大師のことを書いていると、こんな速達が時遅れて来るなど、偶然ではあろうが、奇蹟の親玉のような弘法大師である丈に何かしら、不思議な気がしないではいられなかった。
(「弘法大師」、『空海曼荼羅』夢枕獏編著、2004)
たんぽぽの風企画を2年前にさぬき市で開いたのも、
お遍路さんのお土産を思い付いたのも、
それがたまたま四国霊場88か所開創1200年を3年後に控えた時期であったのも、
偶然ではあるのでしょうが、
菊池寛のこの文章を
これまた偶然見つけて読んだのも、
何かしら、不思議な気がしないではいられない・・・・です。
Posted by 0-た at 13:44│Comments(2)
│日記
この記事へのコメント
何時も勉強になる文章感動しております。
私は偶然とは縁と考えております、人間には
縁があるから偶然のように思えるように思われます。
私は偶然とは縁と考えております、人間には
縁があるから偶然のように思えるように思われます。
Posted by 源さん日記2
at 2012年02月10日 18:11

源さん様
本当にそう思いますね。
ただの偶然も「縁」と思えば大切に感じます。
そう思えば、毎日が丁寧に過ごせるような気がします。
昔の人の日常を感じられ、
ワケもなく焦ってアクセク生活していた自分に気付かされます(*^。^*)。
いつも拙い文を読んでくださりありがとうございます。
寒い日が続いています。お体ご自愛ください(^-^)。
本当にそう思いますね。
ただの偶然も「縁」と思えば大切に感じます。
そう思えば、毎日が丁寧に過ごせるような気がします。
昔の人の日常を感じられ、
ワケもなく焦ってアクセク生活していた自分に気付かされます(*^。^*)。
いつも拙い文を読んでくださりありがとうございます。
寒い日が続いています。お体ご自愛ください(^-^)。
Posted by 0-た
at 2012年02月10日 20:33

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