この広告、メッセージは90日以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事でこのメッセージが消せます。
  

Posted by あしたさぬき.JP at

古代日本の国造りはスゴイ!

2011年11月21日

コミセンのふるさと探検に参加しました。
屋島の城門の復元作業や石積み跡などを古道を歩いて回りました。

「これが道なんかーーーっ!?
っちゅーくらい、石がごろごろのジャングルみたいなところを
地面にはいつくばって登って行きましたタラーッ
前情報なしで気楽に参加したわれら家族は、
周りの紅葉なんぞひとっつも見る余裕ナシで
サバイバル体験しながら必死でついていきました汗

山上で婦人会の人が作ってくれた手作り弁当を美味しくいただき、
少し元気が戻ってきましたプッン

地元に住んでいながら屋島のこと、ホントに知らなかったガーン反省です!!

今から1300年以上前(667年)にできた屋島の城について、高松市の職員の方から説明を受けました。
復元作業をしている城門は、瀬戸内海とは反対側で高松市が一望でる場所にあります。
山の頂全体が山城で、唐や新羅から攻めてくる敵軍を見張る場所が何箇所もあり、
城門跡あたりは作戦会議を開くための本部があって、
敵に見つけられにくく、時間を稼いで、援軍を待ったり戦略を練ったりする場所だった、
また、当時最先端の技術や知識を駆使して敵の侵入を防ぐ造りをしていた門だったことが
調査を進めるうちに分かってきた、といろいろ教えてくれました。

663年大和朝廷は朝鮮半島の百済の応援軍を出したのですが、
唐と新羅軍に大敗してしまいました(白村江の戦)。
屋島の城はその数年後に出来たことになります。

広い道も重機もなかった時代、
屋島の岩盤を削り、石を砕き、城を築くことは気の遠くなるほどの年月が必要だったと思います。
また、城を守る兵士たちを雇うためには戸籍が必要だったそうで、
大和朝廷は、国防だけでなく、民を守るための施策にも力を入れていたそうです。
外交や国造りを必死でやっていたんですね。

「今の後手後手の政治よりよっぽどマシや~~~ん!!
っと、思わず口から出てしまいましたワーイ

市の職員さんも、
「もう一度、そのころの政治を見直すことは大事です!」とおっしゃっていました!

今日のテレビで保育所の待機児童の話題がでてましたけど、
ずーっと昔から保育所が足りない話はあったし、
幼稚園と保育所が別々なのが不便、って話も前々からあった。
それでもずーっとずーっと知らんぷりしてきて、
ここにきて少子化だの、年金制度の危機だの言いだしてから、
やっと本腰入れだした、って感じ・・・ガーン

ここまで深刻化しないとやるべきことやんないのかねーーーっっ怒ってるぞ今の日本人は!
少子化の話だって早くから出てたんだから、年金問題が起こることも分かり切ってたんちゃうんな???

少なくとも、大和朝廷は何百年先の事を考えて、何十年も掛けて山城を築いたんだろうな。  

Posted by 0-た at 21:00Comments(4)日記